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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

沖縄自立構想の系譜

2004年4月10日(土)
琉球大学大学院法務研究科教授 仲地 博 

○仲地博  ……議事録をつくると言われて、少し困ったなというところです。あんまりきちんと準備してなく、原典を確認していないとか、あるいは拾い読みで誤解をしていないかとか気になります。いずれは論文として書くということになるはずですから、そのときにきちんとします。とりあえずはラフな中間報告と理解していただきたいと思います。

 さて、私に割り振られたテーマが、沖縄自立構想の系譜というようなテーマでありました。この研究会は、沖縄の自治や自立を考えるわけでありますけれども、沖縄の自治や自立についての言説で、これまでどのような蓄積があるかという、その系譜を素描してほしい、これから各自分担をして研究会をするけれども、大体流れとしてどうなっているのかというのを第1回目に確認をしたい、そういうのが私に課された課題であります。

 それで、沖縄自立構想の系譜を一通りさらってみようというのが私の報告のテーマであります。沖縄は自立、あるいは独立等を議論しますけれども、このような議論は沖縄だけではないのはもちろんです。九州に九州独立論がある。これは、九州大学の例えば手島孝先生、手島先生という方はもう古い方ですが、その他にも現役の政治学の教授、たしか今里先生だったと記憶しますが、九州法学会で報告を聞いたことがありました。ですから、地域が独立を求めるというのは、人間が独立、不羈、自由、縛られないで自由でありたい、自立したいというように、地域もまたそう考えるわけです。


背景にあるもの
 しかし、沖縄ほど自立についての議論がある場所というのは、ないだろう。それはなぜかということです。沖縄で自立論議が盛んである理由、あるいは背景というのは、レジュメに書いてありますけれども、琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱に明瞭に見てとることができます。これはWHOYOUというインターネットのホームページから引っ張ってきたものです。我々の研究会が発足したときに、島袋さん、藤中さんの手によって参加者に配られました。

 この琉球諸島特別自治制というのは、自治労のプロジェクトとして発表されたものです。この前文には、大体5点ほどポイントが書かれております。レジュメ1ページ、1つは沖縄の地理的状況、2つ目に琉球王国の存在、3つ目に悲惨な地上戦を経験したこと、4番目に米軍占領があったこと、そして5番目ですけれども、復帰で求めたものと現実の復帰との間には落差があったと。この落差という意味は、例えば、基地のない島を求めたけれども、基地はそのままだったというような点が、この復帰思想と現実の落差であります。この5つの要素が述べられております。この5つの要素とも、沖縄以外の地域にはないことがらですね。

 例えば、九州独立論とか、佐渡独立論がありますけれども、この五つの要素は他の地域にはない、佐渡は島でありますけれども、県全部が島というわけではない。この5つは沖縄の特質として認識されまして、こういう特質に裏打ちされて自立論が噴出することになるわけです。
かつて、玉野井芳郎という沖国大の教授がおりました。玉野井先生による、「生存と平和を根幹とする『沖縄自治憲章』」を挙げてありますけれども、この前文が述べているところも、やはり先ほどの自治労の法律案要綱とほぼ同様に、地理的状況、悲惨な地上戦、米軍占領、復帰思想、そして非暴力の伝統です。

 我々がつくりました自治基本モデル条例は、このうちの悲惨な地上戦と米軍統治を前文で挙げてありまして、王国の存在、復帰思想などは特に触れられておりません。市町村のモデル条例であったというところが影響しているのかもしれない。あるいは、そういうところには関心がなかったのかもしれない。私は、このあたりはよくわかりませんけれども、県レベルの条例をつくるときに、これらがどう扱われるのかというのは1つの検討課題ということになるのだと思われます。


沖縄の民族意識
 さて、この5つが沖縄で自治、あるいは自立構想が出てくる背景だと述べましたけれども、さらに奥深いところで民族意識があるというのが、今日お話したい結論であります。ここに、「沖縄自立への挑戦」という本があります。復帰10年目、81年ごろに出た本であります。沖大の新崎盛暉先生などが中心になって編集をしておりますけれども、この「沖縄自立への挑戦」に載っている諸論文を見ますと、どの論文も沖縄の少数民族、あるいは民族意識というようなものに触れるわけであります。

 巻頭の論文は、平恒次というイリノイ大学の経済学の教授によるものですが、平恒次先生の論文には特に民族意識という言葉は出てきませんけれども、平先生が沖縄民族論を主張するのは周知のとおりであります。レジュメに1.中村丈夫、2.中野好夫、3.仲吉良新、4.比嘉良彦、5.矢下徳治の諸先生による論文の中から、どんなふうに民族について触れているかというのを抜き書きしてあります。2番目の中野好夫をごらんください。

 中野好夫さんという方は、皆様ご承知のように、評論家で英文学者、1965年に「沖縄問題20年」という岩波新書を書かれました。新崎盛暉先生と中野好夫先生の共著で、沖縄問題を歴史的、体系的に議論した最初の本が、この「沖縄問題20年」です。中野先生は古くから沖縄に対して大変好意的な論評をしてきた方でありますけれども、この人の沖縄に対するほぼ最後の発言がこの括弧書きです。「ぜひ皆様に植民地隷属の状態から長い民族独立運動の結果、ついに独立を達成した諸国家の歴史を勉強していただきたい」と書かれました。中野さんはこの論文の中で、沖縄が少数民族だとは一言も言っておりませんけれども、行間はそう言っているわけです。これが一つ触れておきたいことであります。

 それから、3番目の仲吉良新さんであります。この仲吉良新さんは皆様ご承知のように、自治労の全国の副委員長を務めた方で、沖縄の復帰運動、労働運動のトップリーダーでありました。この仲吉良新さんが特別県制の案を出したわけです。自治労というのはオールジャパンの組織であります。そのオールジャパンの組織のリーダーが出した案ですから、その案の中には民族という言葉は出てまいりません。しかし、シンポジウムにおける仲良さんの発言の中では次のような発言が出てくるわけです。「(特別県制案の基本的ねらいは)かつて琉球王国でありまして、天皇がいたわけでもない…我々の心の中にも沖縄人という誇りがあります」と。

 もう一つ、4番目の比嘉良彦さんをごらんください。この人は、今では、県の政策参与、稲嶺知事のブレーンであります。この比嘉良彦さんはこう述べております。「日本国家は、沖縄を常に従属的地域社会として扱ってきた。その原因は、沖縄がマイノリテイとして民族的疎外の状態に置かれてきたからだといわざるを得ない。沖縄の自立とは…沖縄が民族的疎外から脱却することとして把握すべきであろう」と。沖縄はマイノリテイとして疎外された状態にあると、現状の分析をしているわけであります。

 さて、これらの論考に見られますように、表面には出なくとも、沖縄の自立構想の根源には沖縄を少数民族としてとらえる底流があるのだということです。


沖縄の思想的伝統
この考え方をもう少しひもといてみたいと思います。琉球大学の比屋根照夫教授が、「混成的国家への道」という論文を書いております。レジュメ1ページのちょうど真ん中ごろに書いてありますけれども、これは、講談社の日本の歴史という25巻のシリーズの最後の巻「日本はどこへ行くのか」に収録された論文であります。比屋根さんは沖縄学の父と呼ばれた伊波普猷、その弟の伊波月城、そして伊波普猷の影響を受けた牧師である比嘉静観、という沖縄の思想家たちを取り上げています。伊波月城は世界主義、国際連合主義というのを論じておりまして、比嘉静観は、世界人であり世界同胞主義であるというふうなことを言っており、そして伊波普猷は混成的国家というのを論じております。

 比屋根さんに拠りながら一連の思想家の特徴的な表現を紹介しましたが、レジュメ1ページの括弧書きのところをごらんください。これは、比屋根さんがこの論文の一番最後にまとめとして書いた文章でありますが、以下引用します。「これらのコスポモリタニズム、世界主義に共通するものは、伊波の個性論に基礎をおく『琉球民族意識』の発露であり、大和民族と異なった『異民族』としての歴史経験に裏打ちされた沖縄主体の自己認識の発言であった。このような自己認識が弱者や弱小民族、マイノリテイへの共感、連帯へとつらなっていったことは、最早疑うことのできない厳然たる事実である。そして、これこそが近代日本の周縁の地から発せられた良質なコスポモリタニズムの発現であったと言えるのであり、未曾有の沖縄戦をへて、さらに過酷なアメリカ統治を通じて、今日沖縄に受け継がれている思想的伝統にほかならない」。

 比屋根さんによりますと、沖縄の思想的伝統というのは、伊波に源流をもった、琉球民族意識の発露であり、ここから沖縄の世界主義というのが出てきたのだというのです。思想的伝統の基礎というのが琉球民族意識にあるということですけれども、戦後、沖縄社会に最も影響力をもった研究者は、大田昌秀先生でしょう。大田先生は知事として沖縄の自立に心血をそそぎますが、その大田先生が沖縄人をアイヌ、朝鮮、中国人と並ぶ日本社会の中の抑圧された少数民族と明確に把握していたというのも、周知のとおりであります。自立論、独立論の系譜を見ると、民族意識が強力な底流としてあるというのが今日の私の話であります。


明治期の思想・運動
 さて、明治期の思想・運動について、幾つか書き出してあります。
まず、「近時評論」という政治評論雑誌があります。現物を見ておりませんので、孫引きになります。「近時評論」というのは自由民権運動の評論雑誌でありますが、この中の沖縄自治構想について、こんなふうなことを述べております。現在わが欧米の圧制に苦しみ国民はいかにして独立の国権を回復せんとしているが、そのためには、わが国自身が隣国外交において条理にそむき小弱を軽侮すべき如きあるべからず、日本は欧米の圧制に苦しんでいるけれども、それをかえりみると、日本が周囲の弱小国家を軽蔑するようなことはあってはならないんだといっているわけです。琉球問題でも、日本がしいてそれを併合せんとするのに反対し、もし琉球の『衆心ノ向フ所独立自治ヲ欲スルノ兆アラバ、我レ務メテ其ノ萌芽ヲ育成シ、天下ニ先立チテ其ノ独立ヲ承認シ、以テ強ノ弱ヲ凌グベカラズ、大ノ小ヲ併スベカラザルノ大義ヲ天下ニ証明』せよ、それこそわが国の名誉をあげ独立の基礎を固くする道である」と。琉球の人々が独立自治を望むような兆しがあれば、それを日本は育成しなさいと、諸国に先立ちて、琉球の独立を承認しなさいと、強いのが弱いのをしのいだり、大が小を併合するような、こういうことはするなと言っているわけであります。

 2番目に明治政府の分島案を出してあります。分島案というのは、周知のとおりでありますが、独立国家琉球あるいは清国の保護のもとにある琉球を、明治国家が勝手に併合してしまったということに対して清国が抗議をしてきたときに、日本政府は琉球を分割するという案を提示いたしました。宮古・八重山は中国領、沖縄本島以北は日本領と。日本政府は、宮古・八重山は譲歩して中国領にしてよい、譲ると言ったわけです。その反対条件として、中国の国内において日本に貿易上の有利な地位を与えよというのが分島案でした。

 これは日本政府から中国に正式に提案されて、中国側もそれを了承し、10日後に調印ということにまでなっておりましたが、調印には至りませんでした。以上は、歴史上、広く知られておりますけれども、その分島案の途中に、沖縄本島の独立案がありました。奄美以北を日本領、沖縄本島を独立の地域として残す。宮古・八重山を中国領とすると。日本政府が考えた一つの沖縄独立案でした。

 3番目が植木枝盛であります。これは自由民権運動家として有名な人であります。以下の報告は比屋根さんの論文「沖縄構想の歴史的帰結」(新沖縄文学)に拠ります。植木枝盛が「愛国新誌」という雑誌に「琉球の独立せしむ可きを論ず」ということを書いております。「琉球もかつて一個の独立をなし琉球といえる一個の団結をなしたるものなれば之を両断することはなお一身を両断しこれを殺すに同じく人の一家を両分してその愛を割かしむるに異なることなければなり」。これは政府の分島案、宮古・八重山を中国に譲り渡すという案に対して、それを批判したのがこの文章であるでわけです。琉球もかつて一個の独立をなし、それを分けるというのはなんたることかというわけであります。

 そして、植木枝盛は、次のような議論を展開します。近時評論と同じような議論でありますけれども、アジアの基本理念は、アジア諸国間の相互不可侵にある、この基本理念を内外に実践的に鮮明し、天下に立って義を示し、同等主義を重んせしむるの道を明らかにするために琉球を独立させよ」、「今にして琉球を独立せしめるがごときは、実に天下に義を示すもの」と。国家は平等である。それを日本が模範としてちゃんと示しなさいと、それを示す道というのは、琉球を独立させるということなんだといっているのです。アジアの進むべき道は、アジア諸国の相互不可侵、諸民族の独立にあると。それに照らしたら琉球を独立させなければならないというのが、植木枝盛の「琉球の独立せしむ可きを論ず」という議論であります。


琉球王国独立運動
 レジュメ2ページの4.のところでありますけれども、琉球王国独立運動を挙げてあります。これは比嘉春潮の論文の中に出てくる話であります。比嘉春潮によりますと、2つの独立運動があったというわけです。近代沖縄においては、2つの独立運動があったと。1つは「巴旗の党」という運動であり、もう1つは「公同会」運動であると。巴旗というのは、これは皆様ご承知のとおり、琉球王国の尚家の家紋が三つ巴であり、その巴旗の党ということになります。これは地下運動で、巴旗の党の話は、ほとんど歴史の中に埋もれまして、現在では掘り起こせない状況のようです。この党が目指すのが、清国の援助で琉球王国の復興運動をするということでした。

 先ほど、分島案の話をしました。そのころ、多数の脱清人が存在しました。脱清人というのは政府の文書の中に出てくる言葉でして、ここではそのまま脱清人と使いますが、漢字からの語感では、清を脱出して日本あるいは琉球に来た人、でしょう。金城正篤先生、西里喜行先生などは、これは正確に言うと、琉球を脱して清に渡った人々なのだから、脱琉人であるといいます。まあ通例の用語に従い脱清人という言葉を使いますが、この人々は、清国の皇帝に対して、沖縄救国運動を展開するわけであります。有名な人には中国名・林世功がいます。林世功は、清国に訴える方法として割腹自殺を行なったのです。そういう脱清人は、福建省に何人、北京に何人とグループをなして運動したようでありますが、こういうグループが、巴旗の党だったのだろうと思います。

 しかし、そういう脱清人は、明治の最後のころまでいたようでありますけれども、結局、日清戦争の結果、清が日本に負けると、脱清運動は、小さくなってまいりまして、その後に出てきたのが、この公同会であります。

 公同会は政治結社でありますけれども、尚家の一門を党首に立てまして、当時の若手リーダー、太田朝敷や高嶺朝教などの大学を出てきた知識層と旧来の支配層が合体しまして行われた運動が、この公同会運動であるわけです。尚家を世襲の沖縄県知事とする特別制度の実施を政府に要求いたしました。沖縄百科事典で見てみましたら、実に7万3,000人の署名を集めて、政府に要請をしたようであります。

 しかし、相手にされなかった。東京の世論も時代錯誤として嘲笑し、さらに東京に遊学している若手青年たちも、この公同会運動会に反対をするという中で、つぶれていくわけです。明治期の思想運動としてはそういうようなところがありました。


戦後の独立論
 さて、戦後の独立論でありますけれども、まず、沖縄人連盟であります。この沖縄人連盟は、戦後すぐに、東京にいた沖縄出身者の、例えば、伊波普猷であるとか、あるいは早稲田の総長を務めました大浜信泉であるとか、そういう人たちが発起人になりまして、引揚者のための救援運動や沖縄に物資を送る運動等をした団体です。今、その後身は東京沖縄県人会であり、その文化部門が沖縄文化協会であるわけです。沖縄文化協会というのは、今でも活発に活動し、仲原善忠賞、そういう賞を出したりするところですね。

 その沖縄人連盟が、初期は日本復帰に批判的で、共産党の「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」は、この連盟宛に出されたものです。共産党が沖縄民族の独立を祝うメッセージを出したというのは知られておりますけれども、内容を改めて紹介をしますと、こういう内容であります。ある一つの典型的な見方をしているわけですね。「数世紀にわたり日本の封建的支配のもとに隷属させられ、明治以降は、日本の天皇制帝国主義の搾取と圧迫に苦しめられた沖縄人諸君が、今回民主主義の世界的発展の中に、ついに多年の願望たる独立と自由を獲得する道につかれたことは諸君にとっては大きい喜びを感じておられることでせう。…たとひ古代において沖縄人が日本人と同一祖先からわかれたとしても、近世以降の歴史において日本はあきらかに沖縄を支配してきたのであります。すなわち沖縄人は少数民族として抑圧されてきた民族であります」。沖縄という少数民族が、米軍によって解放されて、独立へと向かったことを祝うというわけです。実際、米軍に占領されているだけで、独立はしておりませんけれども、そういうメッセージが沖縄人連盟に対して出された。そういう性格を沖縄人連盟は持っていたということです。


戦後沖縄の政党
 2番目の沖縄民主同盟でありますけれども、これは戦後、沖縄で最初に結成された政党であります。琉球独立・琉球共和国を主張いたしました。後に共和党に吸収されますけれども、共和党も琉球独立を主張いたしました。

 3番目に、初期の沖縄人民党を挙げてあります。沖縄人民党というのは、今の日本共産党沖縄県委員会の前身でありまして、長い期間を瀬長亀次郎が率いまして、反米闘争の核となった政党であるというのはご承知のとおりであります。この沖縄人民党も明確には言い切っておりませんけれども、少数民族観に立ち、独立を思考していたと評価されています。

 文章を見ますと、例えば「全沖縄民族の解放」とか、「琉球民族の基本法たる憲法の制定」というようなことをスローガンにしておりまして、少数民族が前提だったのだろうと理解できます。このような人民党の立場は、1951年ごろまで、戦後数年間は続きます。沖縄の戦後の世論というのは、独立論だったということです。

 初期独立論は、多分、こんな感じじゃなかったか。サイダーのふたを外したときに、つまり日本帝国のくびきから解放されたときということでありますけれども、サイダーのふたを外したら、噴出してきたのが、沖縄人意識であったのだろうと。非常に素朴でした。ですから、このときの政党の文書等を見ると、ほとんどスローガンどまりであります。素朴としか言いようがありません。


衰退した独立論
 戦後の独立論は、急速に衰退いたします。ほとんど1、2年、長くても数年で衰退し、復帰運動にとってかわりますけれども、なぜこれほど急速に復帰運動にとってかわるのか、このへんは興味深いところであります。考えられる幾つか理由を挙げてみました。「大正昭和前期の沖縄の知的リーダーの支配的思想」例えば、太田朝敷であるとか、伊波普猷であるとか、こういう人たちが日本人になるということを考えていたということです。伊波普猷も太田朝敷も屈折しておりますけれども、よく引用されるのが大田朝敷が女学校の卒業式のあいさつで、くしゃみをすることも、日本人のくしゃみの仕方をまねなさいといった演説が有名であります。日本人になる方法を考えていたということです。

 2番目は、「日本人教育しか知らない教師」です。これは大城立裕さんなどが大変厳しく指摘しますけれども、沖縄戦後社会のリーダーは教師であったと、その教師たちが師範学校で日本人教育しか習わなかった、日本人教育しか知らない人たちがリーダーになるものだから、日本復帰が主流になるんだということです。

 3番目に「大衆の民族意識」というものも、挙げておかなければならないだろうと思います。既に民衆の中では日本民族意識というのがかなり広く行き渡っていて、復帰運動というのは、その大衆の民族意識に合致していたのではないかということです。そして、かなり本質的なところで「よらば大樹の陰」意識があったのだろう。米軍支配に反対するんだったら、米軍にかわるべき大樹が必要だった。指摘される沖縄の事大主義であります。何かに頼らないと安心できない、頼るべき大樹としてのアメリカにかわる日本ということではなかったかということです。


琉球国民党
 さて、独立論の高揚期は、戦後初期であり、その次は復帰前後ですが、その間に琉球国民党の存在があります。琉球国民党は、独立を掲げましたが、政治的影響力はほとんどありませんでした。国民党は、大宜味朝徳という人がリーダーでした。大宜味朝徳は運動を広げることはできなかったけれども、長い間運動をしたことは特筆に価します。私もこの人の選挙のトラックが走っていたのを覚えておりますけれども、非常に人目につくトラックでありました。昔の映画の看板のような、候補者の半身を色鮮やかにかきまして、それをトラックに載せて走っておりました。この琉球国民党については、新沖縄文学の何号かで島袋邦先生が書いておられます。


復帰前後の独立論
 さて、復帰前後も自立論・独立論が噴出をいたします。もっとも有名で今日も読まれているのが比嘉幹郎先生の「沖縄自治州構想」です。まとまった形で議論しております。比嘉先生は琉球大学の政治学者で、後に県の副知事を務めます。

 2番目の久場政彦さんが「なぜ沖縄方式か」というのを書いておられます。久場政彦先生の論文の中で、他の論者も紹介されています。久場先生も、復帰前から積極的に発言され影響力を持った琉球大学の経済学者です。

 3番目に野口雄一郎さん、これは経済学者でしょうか、「復帰1年沖縄自治州のすすめ」というのを書いておりますけれども、これは制度論を書いていて、おもしろいです。国の出先機関の業務を自治州と市町村に委譲すること、二院制を取ること、財政権を強化すること、中央政府と自治州の間に連絡委員会を置くこと、州代表を閣議にオブザーバー参加させること、自治州外交防衛委員会の設置などです。

 4番目に平恒次の、これは引用されることが少ないんですけれども、「日本国改造試論」があります。これは新書になっております。私は持っていましたけれども、見えなくなってしまいまして、図書館にあるかもしれません。この本の特徴は、他の論者が日本との距離をいかにするかという自立論・独立論であるのに対して、平恒二先生は、日本国家そのものを相対化をしたという感じがいたします。非常に構想が大きくて、独自の民族としての沖縄人が日本国家と対等に合併をして、連邦国家をつくるというのが平恒次さんの基本的な主張であるわけです。新琉球国、新アイヌモシリ、新朝鮮国、そのほか、日本残部からなる日本連邦というわけですけれども、日本を相手取って、沖縄が対等の合併による連邦的結合をするという構想、そういうふうな発想をしたのは、平恒次先生だけだろうと思います。


復帰前後の運動
 次のところ、琉球議会、これは復帰尚早論を唱えたグループでありますけれども、あと、沖縄人の沖縄をつくる会、それから琉球独立党、この3つは保守側から出てきた議論です。復帰が迫ってくる中から、既得の利益を失う人々、あるいは保守側の文化人たちが沖縄の自立を求めたのが、この沖縄人の沖縄をつくる会や琉球独立党でした。琉球独立党は参議院に候補まで立てます。発起人はそうそうたる人々です。当間重剛というのは元行政主席、山里永吉というのは、かなり視点のいい文化、歴史学者でありました。視点のいい論評をした人であります。文化財保護委員会の委員長などをしました。

 真栄田義見先生、これは元沖縄大学の学長をされた方ですね。崎間敏勝という方は、東京大学を出て、琉球政府の高官だったんでしょうか、この崎間敏勝さんを候補に立てまして、参議院選挙に臨みましたけれども、ほとんど泡沫候補の状態でした。71年の参議院選挙で、これは与野党ががっぷり4つに組んだ選挙でした。革新側は金城睦さん、いわゆる革新共闘の候補であります。保守側が稲嶺一郎さん。この両雄の間にはさまれて、ほとんど票を取ることはできませんでした。

 琉球独立党についての資料をアップしたホームページがありました。独立10訓、たとえば、「道理の支配する社会と国家、琉球共和国を打ち立てよう」というような独立10訓とか、琉球独立党綱領などを見ることができます。

 2番目の沖縄青年同盟でありますけれども、71年11月、国会内で爆竹をならした闘争で知られております。威力業務妨害罪か何かに問われまして、裁判にかけられますけれども、このとき、方言で陳述をしまして、また話題になりました。基本的な主張は、我々は日本民族ではない、沖縄人として存在しているということでありますが、沖縄民族かどうかということについては、あんまりはっきりした言い方はしておりません。政治文書が残っていて、これがたしか、風遊のホームページに載っていたと思います。これを見ると、かなり過激でありまして、「沖縄人民の闘いは、日米帝国主義打倒への闘い」として、人民の武装をしなければならないというふうな主張をしております。71年というのは、ラジカルな政治運動が行われた時期でありまして、そういう考え方の影響を強く受けたと思われます。


反復帰論
 最後に、反復帰論であります。これは周知のように、後沖縄タイムスの社長になりました新川明さんが中心的な論客でありました。反復帰論というと、独立論とすぐみなされそうですけれども、反復帰論と、独立論というのは全く別物であるわけです。反復帰というのは何かと言いますと、「反復帰とは、すなわち反国家であり、反国民志向であり、非国民として自己を位置づけてやまないみずからの内に向けたマニュフェストである」と新川さんは言っております。彼は、領土が一つになるとか、制度が一つになるという、そういう意味の復帰に対して、反復帰を言っているわけではなくて、彼が反復帰と言っているのは、みずから進んで国家を求めようとする心の中の営為、これを復帰と言って、これに反対をするのが反復帰だというわけです。復帰運動をする沖縄人の心の中、内発的な思想、なぜあなた方は国家を求めるのかと、それに対して異議申し立てとして反復帰と言っているわけです。

 彼の言葉を引用しますと、「反復帰とはすなわち個の位相で、国家への合一化をあくまで拒否し続ける精神志向と言いかえて差し支えないと」というのです。繰り返しになりますが、反復帰の復帰とは、復帰運動が言っている制度の問題ではないわけです。反復帰とは、国家を求める心を拒否する、そういう精神的な立場なんだと。彼はこう続けます。「さらに言葉をかえて言えば、反復帰、すなわち反国家であり、反国民志向である」と。新川が批判をしようとしたのは、おそらく国家という権威、あるいは国家という権力へすり寄ってしか生きられないと思っている、ウチナーンチュの主体性欠如の問題だったんでしょう。彼は多分、自立しようとする人間の誇りを反復帰というふうに主張したのだろうと思います。

 以上が、復帰前後の自立論であります。


復帰10年の自立論
復帰10年のころについて述べます。もう1時間近くになりましたので、少し速めたいと思います。
まず、特別都道府県構想を宮本憲一先生が書いております。地方自治法を改正し、特別都道府県の第1号にする、特別都道府県というのは幾つもできると。その最初が沖縄だというわけです。このころは、一国多制度という言葉を使っている人は多分いないと思いますけれども、宮本憲一さんの考えは、まさにその一国多制度のはしりであっただろうと思います。沖縄を特別都道府県の第1号にして、その特別都道府県というのは、軍事・裁判・貨幣などの国の事務の一部を除く、全部の内政的国政事務とするというわけです。基本的には1990年代の地方分権推進委員会の考え方が、ここでもう既にあらわれているということです。

 2番目が自治労の、「沖縄の自治に関する一つの視点」と。これは仲吉構想と通称されるもので、先ほども述べました仲吉良新という自治労の委員長の名前がついた構想であります。沖縄は特別県とする、その特別県の意味は、市町村連合だというわけです。今の県ではなくて、市町村連合と言いますから、一部事務組合のようなものを想定すればいいのかと思いますけれども、この特別県には県議会と、県参事会、要するに二院制でありますが、県参事会というのは、市町村長と市町村議員で構成されるというふうな構想であります。


琉球共和社会憲法、琉球共和国憲法
 3番目が琉球共和社会憲法、4番目が琉球共和国憲法であります。3番目と4番目、いずれも起草者の名前は公表されないで、新沖縄文学に掲載されました。3番目と4番目、どこが違うのか。3番目は「共和社会憲法」であります。4番目は「共和国憲法」であるわけですね。この琉球共和社会憲法というのは、これはもう夢の世界を書いています。「国家も法律も司法機関も納税義務も私的商行為もない」、個人的に買ったり売ったりすることもない、そういう社会の憲法なんだというのが、この琉球共和社会憲法であります。

 琉球共和国憲法のほうは、困民主義を基本とするとし、その困民主義とは何かということについては、説明で、「人民の参加と自主管理によって無政の郷」、コミューンであります、政府のない地域、困民を樹立しようという歴史哲学を基礎とするというわけです。3も4も知識人の知的な遊戯という感があります。


玉野井自治憲章
 5番目に、沖縄自治憲章です。玉野井芳郎という大教授が沖縄におられました。この人が自治体憲法をつくろうと主張しました。それが形をとったのが、この自治憲章であります。「地方の時代とは諸自治体がそれぞれの本格的な憲法、憲章または条例を制定する時代である」と玉野井先生は述べます。そして、住民がみずからそういう憲章をつくるというのは、よきしきたりを打ち立てることであると。そんなふうに玉野井先生は「世界」という雑誌で論文を書いておられます。
沖縄自治憲章は、そういうものとしては日本では多分2番目でしょう。1973年に川崎市で学者等がつくったのが最初で、玉野井自治憲章というのは、日本で2つ目の自治基本条例案だとうと思います。

 この自治憲章は大変強い特徴を持っております。それは何かと言いますと、シマ、共同体の意味のシマですね。islandのシマではありません。シマすなわち地域共同体を基礎とするとか、総合扶助と共同性とか、自然の共有という、そういう沖縄らしい視点を明確に打ち出した憲章であります。玉野井先生の思想をもろに表現しております。
もう一つの特徴は、最高規範、審査委員会、抵抗権の規定があって、これが非常に強く表現されておりまして、前にも後にもこれほど明確にこういう規定を置いたものはないだろうと思います。抵抗権の規定は、川崎市の憲章にもありましたけれども、玉野井自治憲章は、それをまた強めた形で、丁寧な形で表現しております。こういう最高規範、審査委員会、抵抗権の規定があったから、自治憲章は独立論と見られた節があります。今回読み直してみたら、そういうふうに読めないこともないなという印象を持ちました。

 さて、これが復帰10年目ごろでありますけれども、復帰10年たって大和世に、日本の社会になった、日本になった沖縄で、改めて自治の見直しが行われたというのが、これらの幾つかの構想ということになります。


1995年前後
1995年前後、独立論が噴出したというのは、皆さんまだこれは記憶に新しいと思います。沖縄自立を求める市民フォーラムとか、沖縄の独立の可能性を目指す激論会が、95年から97年ごろに行われました。自治労の「琉球諸島の特別自治制に関する法律案要綱」がでました。沖縄県庁でも1国2制度が真剣に議論されました。国際都市形成構想がそうです。この当時の県庁の考え方は、形をかえて実ったのか、全然実らなかったのか、そのへんの評価は議論したいところです。


今日の状況
 さて、最後になります。今日、21世紀初頭に沖縄の自立論はどのように議論されているか。

1番目に沖縄自治研究会、本研究会ですけれども、本研究会は、自治基本条例の制定を目標にしましたが、その基本条例は連邦制まで構想するというのが、今の段階です。県レベルの基本条例を創ろうとしていますが、1つは地方自治法の範囲、1つは憲法の範囲、1つは憲法を越えている、そういう3つ案をつくってみようということになっております。3つ目の案というのは、これは連邦制まで構想するようです。場合によっては、共和社会憲法まで構想するのかもしれません。

 2番目が、21世紀同人会であります。21世紀同人会というのは、95年の激論会をやった人々が21世紀同人会をつくりまして、「ウルマネシア」という雑誌を刊行しております。私は最近の号は1冊しか持っておりませんが、バックナンバーの目次を見ましたら、島袋純さんが何回かお書きになっているようですね。ウルマネシアは、「私たちは、琉球孤の自治、自立、独立を求め続けた運動の成果を継承する」としています。ウルマネシア発刊宣言は、こう述べます。「さらば、戦争と暴力と環境破壊と帝国主義、植民地主義、男権中心主義の20世紀よ。この百年余で、私たちの住む琉球孤は琉球王国という国家を滅ばされ、植民化され、戦争と軍事基地の島に変えられてしまった。しかし、この百年余はまた、私たち琉球孤住民が帝国主義と植民地主義に対してくり返し返し、粘り強く抵抗し、変革し、創造していく運動を展開してきた歳月でもあった。私たちは、琉球孤住民の解放と自治・自立・独立を求めて闘い、志半ばで倒れていった多くの祖先、先輩方の苦闘を忘れることはできない。私たちは、琉球孤の自治・自立・独立を求め続けた運動の成果を継承し、ここに新しい思想同人誌『うるまネシア』を創刊する」、これが思想運動しての自立・独立を求める人々の雑誌であります。

 3番目が自治労の特別自治制でありますけれども、自治労は自治体労働者の集まりだけに、節目節目で沖縄の自治制度を考えようといたします。果敢に案も提示いたします。特別自治制をもう一度考えてみるプロジェクトチームを立ち上げたいと今いっています。今それをする理由というのは、沖縄は地理的優位性があるけれども、現在の行政制度の枠組みでは、それは不利な条件に転嫁されてしまうというわけです。辺境になってしまうと危惧するわけです。道州制になると、経済単位として州がつくられていくけれども、九州州も、それから関東州も、沖縄は結びつきが薄い。1国2制度が必要だとし、今これを考えないといけないと、そういう運動をもう1回取り組みたいというのが、4番目の自治労の特別自治制です。


民族自決を求める住民運動・先住民族の会
 4番目が、沖縄の民族自決を求める住民運動と、これは始まったばかりであります。この運動の考え方は、基本的に沖縄は独自の民族である、しかし、同化されてしまって、その結果、自己矛盾が生じていると。例えば、西銘知事(今の稲嶺知事の前が大田知事その前の知事です)。西銘知事が「沖縄の心とは何か」と聞かれて、「ヤマトゥンチュになろうとしてなりきれない心」というふうに返事をしたというのは有名でありますけれども、この矛盾をウチナーンチュはどう解決しようとするのかと、問いかけるわけであります。 そして、我々の内なる同化思想を克服、乗り越えなければ、沖縄の幸せというのはないんだと。それをしなければ、今の道州制の嵐の中で、第3の、あるいは第4のかもしれません、琉球処分が行われるだろうと。沖縄が将来にこういう社会を求めるという構想力を示さない限り、道州制は第3の琉球処分になってしまう。復帰の過ちを繰り返すなというわけです。

 5番目が琉球孤の先住民族の会であります。この会の規約を見ると、こう書いてあります。「国際連合憲章と世界人権宣言の精神にしたがい、先住民族である琉球・沖縄民族の自己決定権を中心とする権利回復を目指して活動することを主要な目的とする」と。会員資格としては1879年、琉球処分以前に琉球に住んでいた人々の子孫が会員資格であると。この琉球孤の先住民族の会は、毎年熱心に国連の会議に参加をしております。先住民族部会を中心にしまして、そのほか、NGOが参加できる会には積極的に参加をしまして、きょうも何か集会を那覇でしているようですね。

先住民族と聞くと、最初は何か非常に変な感じがするわけですね。先住も、後住も、もともと沖縄にはウチナーンチュが住んでいたじゃないかと。何で先住民族なんだと思ってしまいますけれども、これはこういうことだそうです。上村英明さんという恵泉女学園大学の教授が、この先住民族の会の理論的な支え役でありますけれども、この上村英明さんの本「先住民族の近代史」は、こう説明しています。
 
「先住民族は近代国家の成立によって生じる。近代国家が国民形成の名目のもとで、野蛮未開とみなした民族の土地を一方的にうばってこれを併合し、その民族の存在や文化を受け入れることなく、さまざまな形の同化主義を手段としてその集団を植民地支配した結果生じた人々が、先住民族と呼ばれうる民族的集団である」。先に住んだか、後に住んだかの話では全くないわけです。住民族というのは何かというと、近代国家が成立するときに、多数派によって同化を強いられた人々のことが先住民族だと言うわけです。そう言われてみると、沖縄が先住民族というのもうなずけないことではないということになります。
 
上村さんは、こう言います。「国家という政治機構によって分割された地球上の社会の多くは、教育を通してその社会の中で多数を占める民族が形成したナショナリズムに日常生活のすみずみまで染め上げられている」というわけです。沖縄が、ナショナリズムに日常生活のすみずみまで染め上げられたかどうかは、議論が必要だと思いますけれども、少なくとも多数派の文化に少数派の文化が相当に染め上げられているというのは間違いないだろうと思います。


道州制の足音
 以上が現在の状況、自立・独立を考える沖縄の社会状況でありますけれども、冒頭でどの地域でも自立や独立を考えるけれども、沖縄は最も自立論の盛んなところだというのは、この現在の状況を見てもうなずけるだろうと思います。

 さて、分権の流れの中で、市町村合併の次が道州制だというのが自治の状況です。その迫り来る道州制の足音に、沖縄の将来を考えようという動きが出ているということです。自治労にしろ、沖縄の民族自決を求める住民運動にしろ、あるいは沖縄自治研究会もそうかもしれません。経済界にも道州制の研究を始めたいという意見があると聞いております。レジュメの「終わり」の部分は省きます。

 最後にまとめますと、以上、見たように、沖縄の自立論・独立論というのは、百家争鳴で、同じ言葉で違うことを語っていたり、あるいは違う言葉で同じことを語っていたり、同床異夢という感じはいたします。しかし、どちらにしろ、地域を、地域と国家の関係を考えているということは間違いないのです。

 以上で、ちょうど1時間、こんなに長いこと話すつもりはありませんでしたけれども、これで報告を終えます。




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